マレーシアから海外永住 花びら餅とエロスと編集 Written by Miho Kanai

晩夏にして君を離れ──女の一生と海を越えた遠距離恋愛

Essays Thought

まえがき

マレーシアに移り住むまで日本はどことなく窮屈な場所だった。それはきっと「日本が窮屈な場所」だったのではなく、わたしのマインドの問題だったのだと思う。

「女は結婚して子育てしなきゃいけない」
「会社での評価を高めて年収を上げないといけない」
「お金がないと幸せに暮らせない」

こんな考えをするから「日本が窮屈な場所」に感じたのだろう。

そしてもっとも深刻な原因は、「海外移住なんてわたしにはできっこない」と、子どもの頃からの夢を自分で否定し続けてきたということだ。自分で自分の首を絞めていたのである。

よし、海外へ移住しよう。

長年あきらめてきた夢への挑戦と言えば聞こえは良いが、わたしの胸に去来していたのはもっと別の感情だった。海を越えた遠距離恋愛。あいつはなんて言うかな。どんな顔をするだろう。

幸いにもすぐにマレーシアでの現地採用が決まった。これで海外移住の夢がかなう。心が震えた。

決して別離を望んだわけではない。ただ、あのときわたしはそうせずにはいられなかったのだ。

目次

  • 告知
  • 幻想
  • 復讐

告知

「マレーシアで採用が決まったの」

おもむろにそう切りだしたときの彼の顔が脳裏に焼きついている。

驚き、戸惑い、失望、怒り、寂しさなどの感情が一気に立ち現われて入り混じり、晩夏の風に吹かれてすぐさま霧散したように見えた。

彼はわたしより13歳年上である。さすが、年の功といったところか。取り乱すことなく、一瞬の間を置いてすぐに「そうか」と受けとめてくれた。言いたいことはあったかもしれないが、飲みこんでくれたのだろうと思う。

わたしたちの付き合いはかれこれ15年にもなる。結婚はしていない。それだけ長く付き合っていれば、たとえ結婚していなくても半分夫婦のような感覚になることもある。

同棲はしておらず、生活圏はそれぞれ別にあり、お互いが自分の人生を生きながら、たまにふたりで身を寄せて一緒に時間を共有し楽しむ間柄だった。

だから、自分の人生は自分の手で自由に編集する権利があると思っていた。舞台がすっかり整うまで明かさなかったのは、ドリームキラーになってほしくなかったからだ。

つかず離れずの気楽な関係とは言え、長いときを一緒に過ごしてきたパートナーから突然「このたび、外国に移り住むことになりました」などと聞かされたらどうだろう。心中おだやかではいられないのではないか。

複雑な表情のなかに一瞬かいま見た寂しさの影をぼんやりと反芻し、申し訳なさを愉悦が塗り替えていくのを感じながら、無言で彼の体に腕を回してギュッと抱き締めた。

そうして彼の胸に顔をうずめながら、心のなかでそっとほくそ笑む。そう、これはわたしのささやかな復讐でもあるのだ──。

幻想

甲斐性なしの男と冷徹な女

これまでに「結婚」を考えたことがないわけでもなかった。

あれは、わたしが24歳のときだったか。当時お付き合いしていた人が大学院を卒業し、東京の企業に就職することが決まった。遠距離恋愛と言っても、東京と大阪なら週末に往復できない距離ではない。何度か東京に遊びに行った。

遠距離恋愛をしていてもさして寂しいとは感じていなかった冷血漢なわたしは、しばらくして彼にこう言われ、大いに戸惑った。

「結婚して、こっちで一緒に住まない?」

一足お先に社会に出て、仕事にやりがいを見いだし、熱中し、絶好調な社会人生活を過ごしていたわたしは、前途洋洋に思える自分の人生を結婚に台無しにされたくはなかった。

いまなら「週末婚」という形態もひとつの選択肢になりえるだろう。しかし、そもそも結婚願望のないわたしにとって、あえて「結婚」という形式にこだわる理由が見当たらない。遠距離恋愛だってよかったのだ。

結婚して彼と一緒になることと、仕事をやめることを天秤にかけた。答えはすぐに出た。

指輪のひとつでも用意され、お洒落なレストランでプロポーズされていたら、あるいは断りきれずに結婚していたかもしれない。そうなのだ。彼は指輪を用意していなかった。

(おっちょこちょいも大概にしろ!)

しかも先の言葉をプロポーズだとするならば、あろうことか彼はそのプロポーズを電話でやったのだ。なぜ、わたしが訪ねて行ったときにやらないのだ。電話でプロポーズするなとは言わないが、もっとこうやりようがあっただろう。プロポーズへの幻想が崩れた瞬間だった。

彼が気の利かない男だったのを幸いに、わたしは罪悪感もそこそこに結婚の意思がないことを告げることができた。

「いま仕事をやめる気はないの。どうしても結婚したいなら、ほかを当たってくれる?」

プロポーズを電話で済ませる甲斐性なしの男と、ロマンスがわからず仕事を優先する冷徹な女。どっちもどっちか。人生はなかなかドラマチックには展開していかないようだ。

結婚できない男と女

母は古い人間なので、おそらくわたしが結婚して子どもを産むことを期待していただろう。その点については、期待に沿うことができず、娘として本当に申し訳なく思う。

「あんたが男ならよかったのにねぇ」と、結婚より仕事に夢中になる娘を見て、母はよく笑っていた。見合いを打診してきたことは何度かあったが、嬉々として働く娘の姿を見て「こりゃ、だめだ」と悟ったのか、無理に話を進めるようなことはなかった。

世間一般的には、いや、世界一般的には? いわゆる適齢期になれば結婚するのが普通なのだろう。マレーシアでもGrabに乗るとかなりの確率で「結婚は?」とドライバーに聞かれる。「独身だ」と告げると「なんで結婚しないんだ?」と信じられないという顔をされる。まったくもって大きなお世話だ。

人はなぜ「結婚」するのか? 常識だから? 子どもがほしいから?

結婚することに何の疑問も抱かない「普通」の人には、結婚する理由なんてないのかもしれない。結婚に「理由」や「意義」を見いだそうとするわたしが野暮なのであり、ロマンスを解さない「結婚に不向きな女」なのだろう。

と言っても、結婚に1ミリも興味がないわけではない。人並みに結婚したら人生観はどう変わるのか、知りたい気もする。興味を引かれて「ね、結婚する?」と彼に言ってみたら、「しない」と即答された。離婚経験者の彼は、いわゆる「結婚はもうこりごり」男なのだ。

(予想どおりの答えだが、それにしたって、ちょっとくらい悩むふりをしてくれてもよくないだろうか!)

つまるところ、わたしたちは「結婚できない」カップルなのである。

どうしても結婚に理想や幻想を抱くことができなければ、無理に結婚する必要はないと思う。既婚者だろうが独身者だろうが、自分の人生をどう生きるかは自分次第であり、結婚という行為そのものが人の幸不幸を決定づけるわけではない。

世界は広い。結婚できない男と女。そういうカップルがいたっていいじゃないか。

復讐

もともとわたしたちは同じ日本にいてさえ頻繁に会っていたわけではなかった。わたしはフルタイムの仕事に加えてフリーランスの仕事があり、あちらは個人事業主で休日などあってないようなものだった。月に数回、顔を合わせる程度の「ドライな関係」を続けていた。

浮気を疑わなかったのかって? その可能性をまったく考えなかったわけじゃない。離婚したと言っていたが、本当は離婚してないんじゃないか、とかね。

「ねぇ、浮気してる?」と本人に直撃してみたけど、「してない」と言う。「まさか、これ不倫じゃないよね?」と問うと、「違うよ」と苦笑い。ここで本音を言う男が存在するのかはなはだ疑問だが、一応そういうことにしておいた。知らぬが仏である。

それよりも、わたしの不満は別にあった。いつ電話をかけても電話に出ない。折り返し電話がかかってくることもない。LINEのメッセージが既読になってもろくに返事を寄越さない。会うのはあちらの都合の良いときだけ。ちっとも思うとおりになりゃしない。

「いや、それ、浮気してるだろ!」

と、方々からツッコミが入るのが目に浮かぶ。しているかもしれないし、していないかもしれない。わたしのほうが浮気相手という可能性もある。(背筋が凍る。)

疑いだしたらキリがない。本人が「してない」と言うならそれでいいのだ。もし「本命」が乗りこんでくるようなことがあれば、そのときに対処すればいい。まだ起こってもいないことをあれこれ騒ぎ立ててしまっては、お互いに疲れるだけで百害あって一利なし。

ただ、自分が相手から連絡が来るのを待っているだけの受け身な人間に思えてしまうのだけは我慢ならなかった。それでも長い間、自分で自分の人生の主導権を握ろうと努め、自分の気持ちと折り合いをつけながらやってきた。

ところが、あるときその鬱憤に悪魔のツノと尻尾が生えてしまった。もう自分だけが待つ側でいるのはやめにしたい。わたしが海外へ移住してしまえば、今度はあちらがわたし(の一時帰国)を待つ側になるじゃないか。

「マレーシアで採用が決まったの」

おもむろにそう切りだしたときに一瞬かいま見た彼の寂しそうな顔。してやったり。そう、これはわたしのささやかな復讐なのだ。

彼の胸にそっと顔をうずめながら、しかしわたしは一筋の湿った風がふたりの間を吹き抜けていくのを感じていた。

あとがき

かくしてわたしはマレーシア移住をはたした。海を越えた遠距離恋愛は、いまなお現在進行形である。

気軽に会うことができなくなってどうするかと見ていたが、彼の態度はあいかわらずである。電話はおろか、LINEのメッセージですらたまにしか寄越さない。まったくもって腹立たしいかぎりである。いや、たまに連絡を寄越すようになっただけマシなのか。

「ずいぶん冷めた関係なんですね」と言われそうだが、これでも死がふたりを分かつまでともに人生を歩みたいと思っているのだ。もっとわたしに構ってほしいし、愛されていることをいつも感じていたい。

しかし同時に、彼の人生は彼のものだと自分に言い聞かせてもいる。愛情も過ぎれば相手を縛る鎖となる。だからあまり執着しないように気をつけている。

わたしのなかの悪魔はいままた深い眠りにつき、静まりかえった蒼い空の彼方に君を思う日々を過ごしている。