マレーシアから海外永住 花びら餅とエロスと編集 Written by Miho Kanai

「国際人」に求められる3つの資質・能力とは?

BOOKS Life Thought

「グローバル化」「グローバリゼーション」「グローバル人材」

これらのワードはすでに日本社会になじみ、わがもの顔してどーんといすわっている。

本記事では、ムーチョさんの動画をきっかけに、ビジネスの観点のみならず広義的に「国際人」をとらえ、求められる資質・能力について考察してみる。

本記事の内容

  • 「国際人」に求められる3つの資質・能力とは?
  • 「ツール」ではなく「文化の構成要素」としての言語
  • 民族的宗教的な偏見と危機意識の境界線
  • 「豚肉を食べるべきかどうか」の議論はナンセンス

「国際人」に求められる3つの資質・能力とは?


か細くなってしまった記憶のほころびをそろそろとたぐりよせてみると、昔は「グローバル化」ではなく、新聞やメディアは「国際化の波が押し寄せている」などと言っていたように思う。

「グローバル化」「グローバリゼーション」「グローバル人材」

これらの概念が日本社会に浸透しだしたのは、いつ頃だったろうか。

ネットで情報検索をしていると、2016年10月に開催された、東北大学法学研究科・公共政策大学院主催「『グローバル人材』育成を考える──高校・大学・企業の連携を図るためのフォーラム」における公共政策ワークショップⅠ最終報告書を見つけた。

それによると、日本で「グローバル化」や「グローバリゼーション」という用語が本格的に用いられるようになったのは、1990年代以降とある。

世界情勢をざっくりと確認すると、1971年の金・ドル兌換停止による固定相場制の崩壊や、1985年のプラザ合意などを契機に急速な円高が進み、海外旅行など日本出国者数が増加する一方で、輸出企業は生産拠点を海外へ移転しはじめた。

1989年に東西冷戦が終結して以降は、ヨーロッパのEU、ASEAN諸国は域内経済協力のもと、国民国家の垣根を越えた枠組みのもとで自由な経済活動が行われるようになる。

2000年代以降はBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)やVISTA(ベトナム、インドネシア、南アフリカ、トルコ、アルゼンチン)といった新興成長国グループが著しい経済発展を遂げ、企業は新興国で活躍できる人材を求めるようになった。

日本の商習慣や文化、価値観が通用しない外国勢と取り引きしようとすれば、言語はもちろんのこと、現地で情報を収集し、彼らの文化や価値観を理解し対応できる人材が必要になる。

日本政府が掲げる「グローバル人材」の要件

首相官邸のホームページに掲載されている「グローバル人材育成推進会議」の審議まとめ(平成24年6月4日)では、「グローバル化」は次のように定義されている。

「グローバル化」とは、今日、様々な場面で多義的に用いられるが、総じて、(主に前世紀末以降の)情報通信・交通手段等の飛躍的な技術革新を背景として、政治・経済・社会等あらゆる分野で「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」が国境を越えて高速移動し、金融や物流の市場のみならず人口・環境・エネルギー・公衆衛生等の諸課題への対応に至るまで、全地球的規模で捉えることが不可欠となった時代状況を指すものと理解される。

引用元:「グローバス人材育成戦略(グローバル人材育成推進会議 審議まとめ)」グローバル人材育成推進会議 2012年(平成24年)6月4日

そして、「グローバル人材」の概念については、おおむね次の要素が含まれるとしている。

要素Ⅰ:語学力・コミュニケーション能力
要素Ⅱ:主体性・積極性、チャレンジ精神、協調性・柔軟性、責任感・使命感
要素Ⅲ:異文化に対する理解と日本人としてのアイデンティティー

引用元:「グローバス人材育成戦略(グローバル人材育成推進会議 審議まとめ)」グローバル人材育成推進会議 2012年(平成24年)6月4日

ビジネスパーソンとしての「グローバル人材」でも、広義的な意味の「国際人」でも、求められる資質・能力としておおむね異論はない。

ムーチョさんが考える「国際人」に必要な3つのこと

グローバル人材育成推進会議が掲げる「グローバル人材」の要素は、多くの人が思いつきそうな汎用的なワードと言える。

ところが、ムーチョさんは違う。「国際的な人」になるための要素のひとつとして「自然科学の知識」を挙げたのだ。

ん? 

自然科学?

まさかそんなワードが登場するとは予想だにしていなかったわたしの頭頂部が、鬼太郎の妖怪アンテナばりにピーンと逆立った。

自然科学とは自然現象を探求する学問である。その普遍的な法則が、民族や国家、文化や習慣の壁を越えて異文化理解の架け橋となりうるということだろうか。

ムーチョさんが挙げる3つのポイントを足がかりとして「グローバル人材」たりえる資質・能力について思考をめぐらせてみようと思う。

(参考動画)「国際的な教育」に必要な3つのことを、インターの中学生女子に話す

ムーチョさんが語る「国際的な人になるための3つのこと」(抜粋)

  • 見た目が違う人を怖がらない感覚
  • 英語が使えること
  • 自然科学の知識

※「自然科学の知識」とは生物学(Biology)、化学(Chemistry)、物理学(Physics)の知識。

「ツール」ではなく「文化の構成要素」としての言語


グローバル人材育成推進会議が掲げる「グローバル人材」の要素と、ムーチョさんが語る「国際的な人になるための3つのこと」の共通項は「語学力」だ。やはり、お互いに意思疎通を図るなら、共通言語は必須である。

日本人としてはじめて国連難民高等弁務官(UNHCR)を務められた緒方貞子さんも、著書『私の仕事 国連難民高等弁務官の10年と平和の構築』(朝日文庫)のなかで語学力の必要性に触れている。

緒方さんの言葉を下記に引用するが、着目してほしいのは、一般的に言語が自分の意思や主義主張を相手に伝えるための「ツール」として認識されることが多い点において、緒方さんの考えは少し違うということだ。

もうひとつ、若い世代に申し上げたいことは、国際社会で言葉はとても大切だということです。しっかりした言語能力がなければ、実のある活動はできません。自分の意思を伝えたり、用を足す手段としてだけに考えず、相手の文化を学ぶ材料だととらえるべきです。さまざまな言い回しに、その言語を生んだ文化がそのまま表れているのです。言語とは文化であることを自覚して学び、使うことが必要です。言語を通して開ける新しい世界、ひとつの文化、別の価値体系との遭遇が、遠い国の人々に対して連帯感を持つことにつながります。

引用元:『私の仕事 国連難民高等弁務官の10年と平和の構築』緒方貞子著(朝日文庫)

長年、国連難民高等弁務官として戦乱地で難民保護・救済事業を敢行しようと尽力し、むずかしい決断を迫られながら乗り越えてこられた緒方さん。おそらく日常的に宗教的民族的差別、社会的不公正などを目にしてこられたことだろう。

その緒方さんが、言葉を「手段」としてだけ考えるのではなく、もう一歩踏みこみ、「相手の文化を学ぶ材料」としてとらえよと言う。

やりきれないことも山ほど経験してこられたであろう人の言葉として噛みしめると、説得力が増す。

言語は、それ自体が「文化」を構成する一要素である──。

そういうマインドで言語をとらえなおせば、語学を勉強しながら自然と現地で暮らす人びとの生活や習慣、価値観などに意識のベクトルが向き、グローバル人材育成推進会議が「グローバル人材」の構成要素に挙げた「異文化に対する理解」への端緒にもなりうると感じた。

民族的宗教的な偏見と危機意識の境界線


次に、ムーチョさんが一番目に挙げた「見た目が違う人を怖がらない感覚」について考えてみる。

見た目が違う人を「怖い」と思った経験があるだろうか。

わたしには、ある。

小学生のときのことだ。当時、人見知りだったわたしの行く末を心配してか、クラスメイトのひとりが通っていたチアフルスポーティングクラブに、わたしは放りこまれた。

特定のスポーツを習得するというより、とび箱やマット運動、トランポリン、夏は山でキャンプ、冬はスキーといった具合に体を動かして楽しむのが目的の子ども向けスポーツクラブである。

あるとき、いつものように体育館に足を踏みいれると、正面の壇上に掲げられた「デンマーク体操」という横断幕が目に飛びこんできた。どうやらデンマークから国際交流の一環でお客様を招いたようだ。

ロングパンツに白いTシャツを身にまとった、体操のお兄さん、お姉さんのようないでたちの彼らは、長身、色白で、終始にこやかな笑顔を見せていたが、小さなわたしにはその肌の白さが人間ならぬものに思えておののいてしまったのを記憶している。

成長するにしたがって、あるいはすでに「外国人」という存在を認識できていたからなのか、転校した先の小学校でクラスメイトになったイギリス人の女の子とはすぐに仲良くなることができた。

大人になってからは、どうだろう。

正直に胸の内を吐露すれば、がっしりした体躯の男性は、外国人ならなおさら怖いと感じ、身構えてしまう。そしてそれは人間の本能なんじゃないかと思っている。(男性諸君は、どうなのだろう。)

では、まったく人を疑うことなく、危機感を抱かない状態は理想的と言えるだろうか。

日本では日常生活のなかで危機感を持って過ごしたことなどほとんどなかったが、いま、わたしは海外で暮らしている。いついかなる災厄が身に降りかかるかわからない。

とくに日本人は海外では狙われやすいと聞くし、実際に社内の日本人が被害に遭うたびにブリーフミーティングで警告を受けた。

男女複数人で路上を歩いていたところ、バイクに二人乗りした外国人に襲われて持ち物をひったくられた。あるいは、コンビニでお会計をしようとした一瞬の隙をついてバッグをひったくられた、などだ。

夜間にひとりで外を歩くなどもってのほかだが、昼間でもつねに前後左右にチラチラと目を配りながら自衛をしている。道で人とすれ違うときには緊張感が走り、バッグにかけた手に自然と力が入る。

「外国人を見たら、泥棒と思え」──大げさかもしれないが、自衛のためにつねに危機意識を忘れないようにしている。

ムーチョさんが言う「見た目が違う人を怖がらない感覚」が「民族的宗教的な偏見」を指しているとするならば、海外では自分の身は自分で守るしかないという危機意識の重要性を踏まえてなお、純粋な犯罪に対する危機意識と民族的宗教的な偏見を区別することは可能だろうか。

あるいは、「見た目が違う人を怖がらない感覚」が「人種的民族的な外見に対する異質感」を指しているとすると、どうだろう。

はじめて北欧の住人を間近で見ておびえた小さなわたしが、そのあと何の抵抗もなくイギリス人の同級生と仲良くなったように、外見的な異質感は「慣れ」によって薄れていくかもしれない。

ここマレーシアでの生活は、日本とは比べものにならないくらい人種的民族的なダイバーシティにあふれている。タイやインドネシアなどの東南アジア出身者はもちろん、欧米人、韓国人、黒人も見かける。わたしが住んでいるコンドミニアムのセキュリティスタッフはみな、ネパール出身だ。

こうした環境に身を置いていると、人種的民族的ダイバーシティこそが日常であり、裏を返せば、みんながそれぞれに違うことが当たり前で自然なことに思えてくる。いまではもう、外見への異質感は、ほぼない。

偏見や差別の問題について語るには、十分な基礎的知識と問題の本質への理解が欠落しているので、ここではいまわたしの頭のなかにある思考を置いておくにとどめる。

「豚肉を食べるべきかどうか」の議論はナンセンス


ムーチョさんが言う「国際的な人になるための3つのこと」をここでおさらいしておく。

  • 見た目が違う人を怖がらない感覚
  • 英語が使えること
  • 自然科学の知識

※「自然科学の知識」とは生物学(Biology)、化学(Chemistry)、物理学(Physics)の知識。

では最後に、「自然科学の知識」について考えてみる。ムーチョさんは動画のなかで「豚肉」を例に説明している。

イスラム教徒は豚肉を食べない。なぜなら豚は「不浄の動物」として教育を受けているからだ。

かたや日本人にとって豚肉は、栄養学の観点からするとビタミンB1を豊富に含む大切な栄養源である。

もしイスラム教徒と日本人の間で「豚肉を食べるべきか」という問いを立てて議論をしたならば、永遠に答えには到達できないだろうし、議論自体がナンセンスである。

そもそもイスラム教徒にとって絶対的存在である聖典コーランが、豚を不浄な動物として禁じているのだ。栄養学的にどうかいう次元の話ではない。

イスラム教徒にとってそれは「神の言葉」なのであり、豚肉が栄養学的観点から体に良いという科学的根拠をいくら目の前に積んだとしても決して受け入れることはできないだろう。

全体の約60%をイスラム教徒が占めるマレーシアにも、豚肉専門店や豚肉専門のBBQレストランはある。宗教上のタブーがない日本人にはありがたい環境である。

しかし、自分には宗教的戒律の縛りがないからと言って、身近にいるイスラム教徒への配慮を忘れて相手の宗教上のタブーに触れることは避けるべきだ。

ムーチョさんが動画のなかで強調しているのは「サイエンスの考え方を共有していることの大切さ」である。宗教的文化的な観点では解決の糸口が見えないことも、科学的データに依拠すればあるいは結論を導きだせることもあるだろう。

「国際人」であるためには、宗教的文化的な背景への理解を深めると同時に、それと自然科学の論点とを混同することなく問題をとらえ、考えることが大切なのだと感じた。

最後に

緒方貞子さんは著書『私の仕事 国連難民高等弁務官の10年と平和の構築』(朝日文庫)のなかで、「ソリダリティ(連帯)」の必要性について触れている。

問われているのは、遠い国で暮らす人びとに「連帯感」を持つことができるかどうかということだ。民族的宗教的な偏見を超越し、宗教的文化的背景に理解と敬意を示せなければ、ソリダリティの感覚は持ちえないだろう。

では、人間としてソリダリティの感覚を持てなければどうなるのか。

たとえば「ザイールという国がなくなってしまおうが、そこに大きな混乱が生じていようが、うちとは関係ありません」ということになると緒方さんは警鐘を鳴らす。

たとえ自分たちの国に火の粉が降りかからないとしても、同じ地球に住まう者として、一緒になって問題に関与していく姿勢が大切だ。

緒方さんは日本はほかの国と比べて心地よすぎるという。それは悪いことではないが、ほかの国も心地よくなっていかなければ、いずれは日本も心地よくなくなっていくのだと。

「国際人」になるには、意思疎通のための語学力、民族的宗教的偏見あるいは人種的民族的な異質感の克服、ロジカルシンキングのための自然科学の知識が個人的な資質・能力として大切だ。

そのうえで、緒方さんが指摘する高次の「ソリダリティ(連帯)」をめざしていかなければならないのだろうと思う。

「いくら島国だって日本だけカンフォタブルではいられないから」。

参考書籍